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2023/05/29 11:20



大平氏は、駿河国廬原郡(庵原郡)大平郷(現在の静岡市清水区大平)に由来する名字です。大同5年(810年)に高岳親王が薬子の変に連座し、皇太子の地位を廃された後、真如法親王として土佐国高岡郡高岡郷の清瀧寺に入山しました。このとき、今村、田原、大平の三族が親王の近習として土佐に土着し、その末裔となった可能性が伝承されています。

大平氏は藤原秀郷の5代孫にあたる近藤国平の系統と考えられています。国平は治承・寿永の乱で功績を挙げ、讃岐守護に任命されました。そのため、讃岐にも同族の国人領主が存在しました。

蓮池城は、平家の有力家臣であった蓮池家綱が嘉応2年(1170年)に築城したもので、家綱は地名から蓮池と名乗っていました。しかし、治承・寿永の乱により平家が滅亡し、家綱も夜須七郎行宗に討たれ、蓮池城周辺一帯は近藤国平に与えられることになりました。国平の子孫が大平氏を名乗り、350年にわたって蓮池城主として国人領主の地位を保ちました。『吾妻鏡』には大平太郎左衛門の記述があり、彼らは武者の行列などの様子が描かれており、御家人としての地位を持っていたと考えられています。

室町時代になると、土佐は細川京兆家の守護国となりましたが、細川氏の土佐守護代家は京都に在住していたため、地頭として大平氏が土佐を統治しました。大平氏は細川氏だけでなく、五山の禅僧や公家衆とも交流し、冷泉為広に和歌を学ぶなど、文化的な教養を身につけていました。応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発し、大平氏も応仁の乱に巻き込まれます。大平氏は戦国時代を通じて土佐の一大勢力として君臨しましたが、その後は国人衰退の波に押し流されることとなります。

大平氏の家紋は、「丸に三つ鱗」という図柄です。この家紋は大平氏の由来となった讃岐の国平の家紋であり、その後の大平氏の代々の使用も続けられました。丸に三つ鱗は、円形の中に三つの鱗のような図形が配置されています。

この家紋の意味については明確には伝わっていませんが、一般的には「家族の結束と繁栄」や「家名を守り続ける」といった意味を持つと言われています。家族や家名の大切さを象徴し、家族の絆や繁栄を願って使用されてきたのでしょう。

また、家紋は武家や一族の識別や所属を示すためにも用いられました。大平氏は武士としての家格を持ち、地頭や領主として土佐を統治していたため、家紋を用いてその身分や名門の一員であることを示す役割も果たしていました。