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2023/05/29 14:01



名字:三木と三木氏が使った家紋

三木という名字は、日本には複数の氏族が存在します。以下では、主な三木氏の由来と使われた家紋について説明します。

三木:名字の由来

飛騨三木氏
飛騨の三木氏(みつきし)は、藤原秀郷流または宇多源氏佐々木氏支流の多賀氏流とされます。ただし、佐々木氏と多賀氏は同祖ではないため、後者の説は信頼性が低く、「言継卿記」や「明叔禄」の記事から藤原秀郷流と推測される説が有力です。室町時代には、三木氏は飛騨守護京極氏の被官であり、応永18年(1411年)の飛騨の乱後、近江国甲賀郡三木から飛騨国に入国し、益田郡に勢力を持ちました。その後、三木良頼の時代には、飛騨国司であった姉小路家の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取り、その名跡を継承しました。

阿波三木氏
阿波三木氏は、阿波忌部氏の後裔であり、阿波国麻植郡に古くから存在した家系です。鎌倉時代後期からは麻殖氏の宗家として活躍しました。南北朝時代では南朝に属し、室町時代には阿波細川氏の被官となりました。天正13年(1585年)の蜂須賀家政の阿波入国時には、三木義村が蜂須賀側について一揆鎮圧に当たりました。江戸時代には帰農し、麻植郡周辺の大庄屋を務めました。現在でも阿波国麻植郡三ツ木村には、江戸時代に建築された三木家住宅が残っています。

讃岐三木氏
讃岐の三木氏(みきし)には二つの系統が存在します。一つは讃岐国造の後裔氏族であり、讃岐国三木郡に勢力を持っていました。もう一つは橘氏の支流であり、讃岐元重が讃岐国三木郡を領し、三木氏を名乗ったことから始まります。戦国時代初頭には、三木高長が勢力を誇りましたが、戦後時代末期には三木秀成が十河存保に従い、各地を転戦しました。その後、若くして戦死したため、系統が断絶しました。

播磨三木氏
播磨の三木氏は、伊予国の河野氏の支流とされ、播磨国神崎郡三木に住んでいた国人の家系です。室町時代には播磨国英賀に勢力を持ち、英賀城主でした。江戸時代後期には姫路藩の大庄屋となりました。兵庫県には、江戸時代に建築された三木氏の住宅が兵庫県指定文化財として残っています。

三河三木氏
三河国碧海郡三木郷(現在の愛知県岡崎市上三ツ木町)発祥の松平氏の庶流です。この系統では、松平康孝ではなく兄の信孝を三木松平家の初代として扱う文献もあります。

三木家
三木家は、宇多源氏五辻家の支流です。

三木:家紋の由来解説

三木氏が使っていた代表的な家紋は「鶴の丸紋」です。

岐阜県下呂市/宇多源氏佐々木氏族、藤原北家の姉小路氏族:「丸に隅立て四つ目紋」「丸に平四つ目紋」「石持ち地抜き隅立て四つ目紋」「丸に剣花菱紋」「四つ剣菱紋」「丸に釘貫紋」「五瓜に釘貫紋」などのバリエーションがあります。佐々木氏の庶流である多賀氏の後裔である則綱を祖としています。

兵庫県三木市上の丸町/越智姓河野氏族:「折敷に三の字紋」「折敷に角三の字紋」「轡紋」などがあります。伊予国の河野氏の後裔であり、赤松氏の家臣でした。

香川県木田郡三木町/讃岐朝臣後裔、橘氏族:「三つ木の字」「丸に橘紋」「丸に蔦紋」「丸に木瓜紋」「丸に九枚笹紋」「右三つ巴紋」などのバリエーションがあります。讃岐元重の子である高成が三木氏を名乗りました。

徳島県吉野川市鴨島町/忌部氏族:「丸に五三桐紋」「亀甲に五三桐紋」「丸に檜扇紋」などがあります。

以上が、三木という名字と三木氏が使用していた家紋に関する情報です。